偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)の世は終わっているのじゃぞ。過去の産物を見ているに過ぎんのじゃ。
絵画・彫刻・自然物などの目で見える物を信仰の対象として拝むこと、偉い人だとしてあがめること。
※ここで言われているのは「お釈迦様(仏像)や、ブッダ(大仏)、キリスト教の像」などを指している。
ご本人様は既に何度も生まれ変わっており、本人から伝えられた内容は間違った解釈や改ざん、悪意のある人の内容も入り交じりごちゃ混ぜになっている。
宗教の中で、「なぜそうなのか?」と抽象的過ぎて腑に落ちない(納得するに至らない)疑問が生まれるのはこのため。
民は真理求めて生きておるのじゃから、いつまでも過去に生きた人拝んでおるでないぞ。
方便(ほうべん)の世はもう終わっているのじゃぞ。何々様方はとうに何度も生まれ変わりて、貴き(とうとき)お働きなされておるから、嘘申して金儲け人儲けならんぞ。
仏教で、人を真の教えに導くための仮の手段。 「うそも―方便」。
人を真実の教えに導くため、仮にとる都合のよい手段。
因縁積みいたしておるのじゃぞ。お偉いさん方、まだ気づかんか。
物事はすべて、その起きた原因(=因)と、結果を結ばせる作用(=縁)によって、定められていること。
善の仮面被った悪、言葉ばかりは良きこと申すが、人のためと申して己の損得ばかり考えておる魔物、住みついておるぞ。
笑っておるが、腹は怒り妬み(ねたみ)僻み(ひがみ)で充ちて(みちて)おるぞ。
友と申して擦り寄りて、己の企ていたしている者多いぞ。腹からの改心、根本からの改心がいるのであるぞ。
自由じゃ、在るがままじゃと、魔物はもっともらしいこと申して操り、人民ワヤにいたすが、真(まこと)一つで皆ひっくり返すぞ。
無茶苦茶にされる。台無しにされる。
皆々頭下げて詫(わび)ねばならん時来るぞ。
この世は写し鏡じゃなあ。心、顕れるなぁ。
この世、変わりておるのぞ。人の心のままに顕れてもおるのぞ。
よくないことが公になる。発覚する。「悪事はきっと顕れる」「魂が目に顕れている」
心などの目に見えないものも、どこかしら形や言動にあらわれること。
地、拝んで下されよ。足元大切じゃ。
真、拝んで下されよ。生かしてくださる根本を知りなされ。
身体、拝んでくだされよ。
借りておるのじゃからな。
大宇宙(おおかみ)、拝んでくだされよ。
すべて親神の中に在るのじゃぞ。
皆々己ぞ。喜びぞ。与えられておるのじゃぞ。
死んで極楽にゆく教え、真の教えではないのじゃぞ。
人集め金集めに作られた教えであるぞ。
この世、極楽に変えてゆく教え、生き方いたすが真であるぞ。
救われたいと申す者は、己の心に大事に話しかけてみよ。
己の心に何度も詫びてみなされ。己の心改めねば先には進めんのぞ。
神、仏、天使様の御(みこえ)と申して、九分九厘(くぶくりん)は皆々企ていたす人の霊ぞ。
百に対し九十九の割合。ほとんど。
獣らの声、他の星の方々、いずれも満たされておらぬ我良しの霊であるから、見えた聞こえたまま申すことが真ではないのぞ。
審神(さにわ)出来る者、少ないのう。何度も審神なされよ。特別になりたいと申すゆえに、良いように操られるのじゃ。
審神者とは、古代の神道の祭祀において神託(神のおつげ)を受け、神意(神の気持ちや意志)を解釈して伝える者のこと。
誰でも分かるようになると申して、金儲け人儲けいたす者多いぞ。
わからん者は分からんのであるぞ。
分からんので良いのであるぞ。
与えられてあるものありがたく思える者になるが真の道ぞ。うれしたのし生き方ぞ。
無いもの欲しがれば魔物に遊ばれ、ワヤに掛けられるぞ。認めて下され愛して下されと、自己顕示欲じゃなあ。
皆々変わる。良きように変わる。因縁相応に変わるのじゃ。
うれしうれしたのしたのし、みなみなかわるかわる、ありがたやありがたや。
今を足場に喜びへと向かわれなされ。
与えられるもの、感謝感謝感謝なされ。
どこまでも感謝いたして、頭下げて歩いてゆきなされ。
これで良いという所はないぞ。
頭下げれば下げるほど、嬉しくなる仕組みじゃ。
ありがたくてありがたくて涙流れる真の仕組みじゃ。
真の極楽に生きる生き方、感謝いたし頭下げ続け、喜び涙いたす道ぞ。
生かされている己、生かして下さっておる他一切(たいっさい)を拝んで生きなされ。
うれしうれしたのしたのし生きる生きる。
あーわーやーらーわー うーるーうーるーうー おーおーおー
2014年12月10日 神人遣いて真申す。縁ある者、世に伝えて下されよ。ウの大神、お願い申すぞ。